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まちの歴史

[2010年3月20日]

 久御山の地は、巨椋池周辺を中心に早くから開けました。地名や「日本書記」にみる、かんがい用水路と考えられる栗隈大溝(くりくまのおおうなで)の記事からもわかるように、早くから稲作が盛んな土地だったようです。市田斉当坊遺跡からは弥生時代の出土物が数々発掘され、弥生時代中期の集落跡の可能性があるといわれています。
 平安時代に入ると、皇室領として御牧に美豆の牧、佐山には御厨が設けられるなど、朝廷との深い関わりがありました。
 町内には、称名寺薬師如来坐像や浄安寺聖観音菩薩立像など平安末期から鎌倉時代にかけての古仏も多く残されており、当時の精神文化をうかがい知ることができます。また、神社建築にも見るべきものがあり、雙栗神社本殿の「りすとぶどう」「鹿と紅葉」の華麗な彫刻は、過ぎし日の栄華をしのばせています。
 近世では、巨椋池漁業権の総帥であり、大庄屋であった山田家の長屋門は、東西27メートルの壮大なもので、その堂々たる風格は、昔の面影を今によく伝えています。
 久御山町の歴史は、また水との闘いの歴史でもありました。
 文禄3年(1594)、伏見城を築城した豊臣秀吉は、宇治川を巨椋池北方の伏見城下に迂回させ、巨椋池の各所に堤防を築き、流入していた諸河川と池を分離させました。このため、明治時代まで2,3年に1度は水害に襲われることになったのです。
 このように災害をもたらした巨椋池も昭和8年から同16年にかけて干拓されました。しかし、近年においても、昭和28年の台風で再び水害の恐怖にさらされ、作物は収穫皆無となる状態でした。こうした中でも先人はくじけず、新しい作物の栽培を試みるなど、たくましいエネルギーで苦難を乗り越え、未来へ躍動する今日の久御山町の礎を築いてくれました。

 

平安朝御牧馬寮の碑の写真

 ▲平安朝御牧馬寮の碑

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